森に帰ったしな乃

        


     



                       

 娘の死から数年経っただけで、世間の空気はガラッと変わってきました。あたかも悲惨な事故など無かったかのように振る舞うことが求められたのです。
 とは言え、年賀状を復活させることだけは出来ませんでしたが、涙で塗りつぶしたような年末のハガキを出すことだけは、差し控えることにしました。
 そして仕事関係や親戚、友人などには、涙を押さえた年賀欠礼状を、別立てで出すようになりました。


<2013年 年賀欠礼状>


  2016年師走                悲しみを隠して

 十月の下旬、日本最後の清流と呼ばれる高知県の四万十川を、その河口から源流まで辿りました。
 四辺を海に囲まれた四国にあって、ひたすら狭い山道を選んで駆ける、五日間の旅でした。その道すがら、中流域の十和村から、さらに山奥に分け入った先に、「戸川」という名の集落があることが判りました。自分の苗字と同じ地名に興を募らせ、つい寄り道をしてみました。
 山の狭間を裂くように流れる川があります。この川は「戸川ノ川」と言い、四国の名峰、石鎚山を源としています。清冽な水は急峻な谷を穿ち、小さな部落を走り抜ければ、ほどなく四万十川の本筋に合流します。この川沿いが、目指す目的地でした。
 ところが今、この谷間に戸川の姓を名乗る者は一人とて無く、なぜ戸川なのか、地名の由来を語ってくれる人は見つかりませんでした。期待に心を弾ませての訪問でしたが、我が家のルーツに繋がりそうなものは何一つありませんでした。しかし家々の庭先に柿の実が熟れ、鶏の鳴き声がだけ聞こえるという長閑な風景は、得も言えぬ安堵感で包み込んでくれます。目を閉じれば、遠い子供のころ、この地に遊んだ記憶が、鮮やかに蘇るような気すらして来ます。この不可思議な錯覚は、あながち思い込みだけでは無さそうに感じました。
 さて今年は、地区の自治会から会計責任者という大役を仰せつかり、七転八倒の苦しみを味わいました。仕事上で経理実務の経験がなかったうえ、元々お金の管理が不得手という性格が災いして、現金出納にうろたえ、会計ソフトのエクセルと格闘する日々でした。
 来年もまた、このような他愛ない便りを差し上げられることを願いつつ、つたない年の瀬のご挨拶といたします。どうか健やかに、お過ごしください。


  2015年師走                悲しみを隠して

 生を受けた信州の伊那谷には、「だだくさもない」という、妙な方言があります。「滅茶苦茶たくさん」という意味で、物事を大袈裟に表現する時に使います。
 ある日、故郷とは無縁の知人と会話中、突然私の口から、この忘れ果てていた方言が飛び出して来て、ビックリしたことがあります。人間の記憶は大脳皮質に蓄えられており、不要となった古い情報から、徐々に消失していくと言われています。思うに私の脳機能は、加齢によりその大半が死滅してしまい、幼少期に刷り込まれた原記憶層が、丸出しの状態になっていると考えられます。
 ともかく多難と呼ばれたこの一年を、健康かつ無事にやり過ごすことが出来たのは、喜ばしい限りです。
  今年は好きな旅行にも行かず、一市民として、安保法制反対運動に打ち込みました。夏から秋にかけては、通勤定期券が欲しくなるほど、国会周辺に通いつめたものです。私には意地というか、祈りがあります。それは享受してきた七十年間の平和を、このままの姿で、次の世代に譲り渡したいという想いです。
 残念ながら、抵抗運動の結果は皆さんもすでにご存知のとおりです。でもこの勝負、決着はまだまだ先さと、空元気を出している昨今です。とまれ、来年もこの延長で、退屈することだけは避けられそうです。
 ところで、遡ること二昔ほども前、私は娘に向かい問うたことがあります。人生を飾る華として、春の桜、秋の紅葉のどちらを選び取るかと。今私の心境は、藤原定家が新古今和歌集で詠んだ歌の中にあります。
  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
 来る年、皆さんのご多幸とご健勝を念じつつ、年末のご挨拶といたします。


  2014年 師走                悲しみを隠して

 今年、めでたく古希を迎えることが出来ました。唐の詩人杜甫は、『人生七十古来稀なり』とその詩「曲江」に詠いました。私の父親は、せめて70歳までは生きたいと願いつつ、69で逝きました。
 短命系の戸川家にあって、70の大台超えは確かに稀なことかも知れません。この授かりもののような余生を、これからも大切にしていきたいと念じています。
 とは言え体の衰退は蔽いようもなく、今日は目、明日は歯にと、診察券の枚数は重なる一方です。10月には鼓膜の張替えという大手術を受け、そろりそろりの養生暮らしを送る昨今です。
 夏、運転免許更新に伴う高齢者講習の案内が届きました。車の運転からの、卒業時機を探る頃合いに差し掛かっているようです。
 一時は熱に浮かされたかように出かけていた海外旅行は鳴りを潜め、今年は辺鄙で静かな所を選んでの、国内旅行ばかりを楽しんで来ました。地元の人との思いがけぬ出会いと、心温まる触れ合いがあり、得難い土産話を積み上げた一年でした。   
 年末選挙を終え、世はアベノミクスとやらで沸き立っています。しかし年金の切り下げや諸物価高騰など、高齢者には決して過ごしやすい時代ではありません。無い知恵を絞り、耐え忍んでいく決意を固めています。
 また今年の冬も寒いのでしょうか。皆さまにおかれましては、来年も幸多い一年でありますよう心からお祈りして、年末の挨拶とさせていただきます。


  2013年 師走                悲しみを隠して

 7月、中学校時代の恩師が亡くなりました。集まった級友は、先生の霊前に並び『仰げば尊し』を唄いました。「今こそ別れめ いざさらば」。
 11月、田舎に置きっ放しにしていた伝来の墓を掘り上げました。そして祖父母や両親たちには、遠路東京の高尾山麓に移って貰いました。
 墓地改葬という、重い肩の荷を下ろした安堵感と、信州との最後の糸が断ち切れた侘しさが、ない交ぜです。
 同じ月、妻の母親が他界しました。95歳という寿命に不服はありませんが、遺された家族の寂寞感は拭えません。
 師走、今から10年前、52歳という若さでに亡くなった、ある女性の墓参へと、神奈川県の三崎まで出かけました。この人は、ボランティア団体で一緒に活動した仲間ですが、膠原病という死神に取り付かれてしまいました。 私は高校一年生の時母親に死なれましたが、母との死亡年齢が同じであること、また膠原病という難病も同じだったこともあり、不思議な因縁を感じています。
 それにしても、なんと今年は仏事との関わりが多かったことでしょう。そんな時期だと軽く言われれば、素直に納得出来ます。
 見渡せば、先を行く人が少なくなっています。「さぁさ、お次の番だよ」という囃子言葉が聞こえたようにも思いますが、聞こえないふりをするのも、この世代の特技です。まずは、一日一日を丁寧に刻み続けて行きたいと考えています。今年頂いた皆さま方のご厚志に、心より感謝申し上げます。良き年をお迎えください。 写真右は、上記文中の女性。2003年2月、遺族の会の熱海旅行でご一緒した斎藤るい子さん


  2012年 師走                悲しみを隠して

 ヒットした小説が、やがて映画化される。これが従来のパターンだったように思います。しかし近ごろは映画化された後に、その小説が売れていくという、逆の現象も多々あります。
 高倉健主演の「あなたへ」、吉永小百合主演の「北のカナリヤたち」もそうした類に属するのでしょう。映画を見終わっての帰り道、早速本屋さんへと回り道しました。そして映画にはない原作の深みや、逆に脚本家の創造性の豊かさを改めて味わいました。
 私が若者だった遙かな昔、高倉健や吉永小百合は、大映画スターと呼ばれる憧れの対象でした。今様に言えばアイドルです。そんな彼らが、老いてなお凛々しく銀幕に立ち続ける姿に、励まされている自分を発見しました。
 むろん私の歴史には、彼らのような華々しさはありません。しかし派手な生き方は出来なくても、せめて味のある年相応の風景を、この背中に漂わせているだろうかと、そっと鏡を覗いて見たりします。この歳にして、未だ明確な自画像を描けないもどかしさに、自問自答する毎日です。
 東日本大震災は、およそ2年近い年月を経て、ようやく復興の域に入った感じがします。しかし原子力発電については、私の胸の中では再稼働を許す寛容性を捨て去りました。衆議院選挙が終わり、その新しい政治体制には、派手で過激な政策を採らず、豊かな経済よりも、平穏な毎日を保証して欲しいと希求しているこの頃です。
 皆さんにも、不安のない新年が訪れますようお祈りして、年末のご挨拶といたします。


  2011年 師走                悲しみを隠して

 3月11日、私は近所のスーパーマーケットで、夕食用の買い物をしていました。突然、激しい目眩を感じて、体がグラグラと揺れました。
 これが脳溢血というものか、ついに私も、こんな所で倒れて死ぬのかと、そのとき思ったものでした。これが、東日本大震災勃発の瞬間だったのです。地震が未曾有なら、続く原発事故も前代未聞でした。かつて人類が体験したことのない、天災と人災のコラボレーションを味わい尽くしました。
 とくに放射能という見えない害毒が、未来ある若者や子供に与える影響を考えると、気の毒でなりません。
 被災地の方々の苦労を考えると、贅沢が言えないことは百も承知しています。しかし、一連の出来事で、身の回りや生活が思いっきりかき乱され、迷惑しました。遊興は自粛すべし的ムードに気圧されて、観劇も旅行も手控えました。この間、成したことはといえば、野の花の写真を撮り集めたことくらいでしょうか。  晩秋には、なり振り構わぬ節電に邁進した挙げ句、風邪をこじらせてしまいました。結局、2ヶ月近く咳が抜けないという、惨憺たる有様の後半年でした。
 こんな風潮では、ついつい希望が失われてしまいます。知らず知らずのうちに、隠遁生活真っ只中にいる自分を発見しました。物に執着しない生活は、清々しいことですが、寂しくもあります。「捨てきれない荷物の重さまへうしろ」放浪の俳人、山頭火が詠んだ句です。私も、強欲と無欲の狭間をさまよいながら、これからも生きていくことになるのでしょう。来年は、もう少し明るい話題と報告が、皆さまに出来るようになることを切望しています。どうか良き年を、お迎えください。


  2010年 師走                悲しみを隠して

 『しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ』、天衣無縫の才質といわれた、歌人河野裕子さんの作品です。
 彼女は、夫へ子供へ、そして己へと、惜しみない愛を、家族という名の湯船に注ぎ込みました。その生き様を歌に換え、私たちに伝えてくれています。
 我が肺腑を、鋭いノミで抉られるような『朝に見て昼には呼びて夜は触れ確かめをらねば子は消ゆるもの』、という一首もあります。
 この8月、河野裕子さんは、十年来戦ってきた乳がんに負けてしまいました。しかし今、温い布団にくるまれて長じた子供は、歌人として、母の航跡を追おうとしています。彼女にとって、最高の作品は二人の子供だったようです。
 さて、2年越しに続いた足底筋膜炎という厄介な病気から、近ごろやっと解放されました。これからは自由に歩き回れると思ったら、今度は、怠惰という疫病が、身体の隅々にまで蔓延っていることに気づきました。日がな一日、座仏のように、一所で根を下ろしていることが多くなっています。
 友人の薦めで始めた株取引は、我が家に美食をもたらすどころか、古漬けとなって樽の底に貯まる一方です。しかし根っからの小心者ゆえ、投資も少額という枠の範囲内で、生活をかき乱されるまでには至っていません。
 ままよ、呆け防止になっているわいと、言い訳ばかりを振りかざしてはいるのですが、日々妻の罵詈雑言を頭から浴びて、身を縮めながら暮らしています。
 皆さまにとって、副多い来年でありますよう、心からお祈りします。


  2009年 師走                悲しみを隠して

 足底筋膜炎という耳慣れない病名があります。朝起きた時など、歩き始めた瞬間に足の踵に激痛が走る、厄介だけれど、他人の同情を買うことの少ない病気です。足裏の筋肉の衰えが原因といわれ、高齢者には案外と多いようです。
 鎮痛剤に頼ってはみたものの、なかなか快方に向かわない私に向かい、医者は肥満も原因のひとつであると仰いました。
 一念発起して、ダイエットに取り組んだ結果、一年で約10キロもの減量に成功しました。踵の痛みがやや改善されたこと、体が軽くなって動きやすくなったことなど、その効果は多々あります。
 一方、ふくよかだった顔が、貧相な、刺々しい顔つきに変わったというマイナス面も認めざるを得ません。今更、人前に出る顔じゃないやと、開き直ってはいますが、負け惜しみの声には、力がありません。
 退屈しのぎに始めたのがネットオークションです。江戸後期から明治・大正まで、少々古びた陶磁器を買い集めました。これらは生活骨董といって、いわば古物商の土蔵整理に手を貸すようなもの。二束三文のガラクタばかりです。
 古色然とした食器を並べ、毎日の食卓を風雅に飾りたいという願望とは裏腹に、色も形もてんでバラバラな器がテーブル上にひしめき合い、貧弱な食材がますます貧弱に映って見えます。
 良くしたもので、貧しき人には、貧しき風貌と食生活がついて回るようです。
 とは言いつつも、今年も無事に終えることが出来そうです。皆さまにとって、新しい年が幸多いものでありますことを、衷心よりお祈りいたします。 


  2008年 師走                悲しみを隠して

 経済の冷え込みとやらで、年金暮らしの身には、寒さが一段と応えます。
 さて、作文三上という言葉があります。例えば本書のような文章の構想を練るのに適した、然るべき場所というものがあり、そこは馬上、枕上、そして厠上だという意味だそうです。
 馬上とは、今風にいえば通勤電車です。定年後は、当然ながら通勤そのものがないわけで、考える場所を根底から失ってしまいました。枕上とは、夜、布団の中に入ってから考えるということです。ところが仕事から解放され、ストレスが無くなったせいか、近頃は不思議と寝付きがよくなってしまいました。厠上とは、まあこれは改めて説明するまでもないでしょう。
 私がなぜいまこの言葉を挙げたかというと、本書の構想を、さて私はいったい何処で練ったのでしょうかと、皆さまに問うためではありません。
 定年を境に、かくも生活ぶりが変わったことを紹介したかったからです。 
 そんな中でも、いまだ現役といえば家事、とりわけ料理役です。しかしこのところガスの消し忘れが度々あったり、調理中の火が着ているものに燃え移る、着衣着火の心配も現実味を帯びてきました。
 やむなく現役引退を申し入れたところ、心の優しい妻は、ガスからIH調理器具に買い換えてくれ、これからも終生現役として頑張るようにと、定年延長を祝福してくれました。
 皆さんの、今年一年のご健勝をお祝いいたします。また、来る年も幸多からんことをお祈りいたします。


   2007年 師走                悲しみを隠して

 年賀状を廃し、年末挨拶状に代えてから15年になります。近況報告を、じっくりと聞いていただくには、最良の方法だと考えたからです。困ったことに最近は、報告することを探し回る羽目に陥っています。
 定年から3年が経ちました。年金耐乏暮らしもさほど苦にならないのは、根がケチで、贅沢から本能的に逃げ回っている所為かも知れません。
 パック旅行や日帰り温泉を年に数度。映画といえば、弁当持参の映画祭3本立て。趣味はリサイクルショップの、そのまたウィンドショッピング。食べ物は牛スジ煮と小鰺の唐揚げがせいぜいの好物。お茶は、一年中薬缶で煮出した烏龍茶です。
 3年前に、中学時代の同窓還暦祝いがありました。そこで顔を合わせた仲間が、毎年櫛削るように、帰らぬ人になっています。
 先日、東京近辺の級友と忘年会を開きました。努めて明るく振る舞っても、気がつくと、11月に他界した仲間の話に立ち戻っています。
 過食と運動不足の行く末は、メタボの腹と決まっています。市の無料健康診断で、問診の医者は検査数値を前にして、私の目を見ぬまま、深いため息をつきました。あれはきっと、愛想づかしだったんですね。
 来年こそは・・・るぞと、皆さまにお約束する課題を、年末年始の炬燵の中で考えたいと思います。
 皆さんの期待と応援をお願いして、年の瀬のご挨拶といたします。良いお年をお迎えください。


   2006年 師走                悲しみを隠して

 この11月、退職して丸々2年が経ちました。晴れて満額の年金をいただくこととなりましたが、その額をみて、正直しょげ返っています。 これが40年近く働いたことへのご褒美かと思うと、情けなくなるやら、国の政治を恨むやら、老人の愚痴は何時果てるやら、です。
 60からの手習いの英会話、健康のためと称して始めたウォーキングも、相次いで挫折の憂き目を見ました。相変わらず自慢出来ることと言ったら、大喰い、イカ物喰いといった、胃袋自慢ばかりです。その結果をご報告するには、やゝ躊躇いを感じます。
 周りの方を暗くしますので、愚痴もこのくらいで止めておきますが、歳を取って不足するものは、チャレンジ精神と持久力だということを知りました。いわゆる、後の祭りではありますが。
 今年の夏はスイスに行って来ました。真夏の雪降りを2度も体験しました。しかし白く輝く氷河や、住宅の庭にまで咲く高山植物など、心を洗濯するには格好の国でした。
 元気なうちに、あと何回くらい旅行も出来るでしょうか。これからは年単位の短期目標を掲げて、それを達成することだけを生き甲斐にしていきます。とは言え現実は、家事と孫のベビーシッターだけが、今日も私を待っています。
 今年もお世話になりました。来る年、皆さまのご多幸ご健勝を、心からお祈りいたします。


   2006年 新春                悲しみを隠して

 皆さまに、謹んで新年のご挨拶を申しあげます。毎年この時期には、旧年末にご挨拶状をお送りしてきました。ところが昨年末から新年にかけ、都合10日間も、中国は北京と天津に行ってきました。そのため、ご挨拶が年を越してしまいました。
 さて、定年を迎えてほぼ一年余、無職暮らしにもすっかり慣れてしまいました。他から見れば羨ましがられるかも知れませんが、何もすることが無いということは、実に寂しいことであることを、今更ながら思い知らされています。
 ハローワークからの助成金で英会話を始めましたが、時すでに遅く、舌の回転と記憶力がついて行けません。不純とは思いますが、ひそかやな楽しみは、女子大生と受講するレッスンだけです。
 この昨年末の旅行は中華料理の飽食が目的でした。それが叶った反動で、帰国後は怖くて体重計にも乗れません。
 さて本年はどうなることやら、ドラマチックなことは望めませんが、ともかく無事だけを祈って暮らしていこうと念じています。
 皆さまにおかれましても、健やかな一年をお過ごしになられますよう、衷心からお祈りいたします。


    2004年 師走                悲しみを隠して

 夏の猛暑、台風の波状攻撃、そして新潟県中越地震と、異常現象は果てなく続き、気象記録と、私たちの記憶をすっかり塗り替えてしまいました。
 それにしても、今年はなんと激動の一年であったことか。
 新春、母の死を皮切りに、8月には肺がんで、右肺の一部を切り取る手術を受けました。その自宅療養中に還暦を迎えてしまい、11月には、そのまま定年へとなだれ込んでしまいました。
 春は台北で食欲を満たしました。夏には、ロンドンからパリへと芸術鑑賞行に酔いしれました。
 故郷では、還暦祝いの催しがあり、懐かしい友と旧交を温めました。映画『世界の中心で、愛をさけぶ』を妻と見て、柄にもなく大泣きしました。
 こうした出来事の合間を、交通事故関係のボランティア活動がビッシリと埋めてくれました。しかし、いずれも重さとまとまりがなく、握れば、指の間からバラバラとこぼれていってしまいます。
 喜びも悲しみも、ともに分かち合う「娘」という接着剤が欠けていたからです。やはり今年も、悲しみの勝った一年でした。
 ようよう年末に来て、少し落ち着きを取り戻しつつあります。
 来る年、皆さま方の、ご多幸をお祈りいたします。


    2003年 師走                悲しみを隠して

 同居していた息子のところに、今年1月、初孫が生まれました。「もうアイツもそんな齢か」と言われるのが恥ずかしく、ひたすらおトボケを通してきました。
 2月、ただ上海ガニが食べたいという不純な動機だけで、上海に行って来ました。帰国直後、世界中を恐怖に巻き込んだのが、SARS騒ぎです。
 日本で最初の患者になることだけは勘弁してくださいと、ひたすら孔子様に祈ったものです。
 家族が増えて手狭になったため、9月、新居に移りました。しかし家が広くなったと同時に訪れたのが、息子夫婦との物理的な分離生活です。
 その分増えたのが、新婚時に戻ったような妻との暮らしです。まあこれはこれで良いではないか、と思っていたところに、この年末、なんと2人目の孫ができました。振り向けば、慌ただしさに追われた一年でした。
 さて、来るべきものが来たと申しましょうか、来年の11月には、サラリーマンを卒業することになり、余す時間も一年を切ってしまいました。
 還暦などほど遠いと考えていましたが、時は非情なもので、多少の感傷に浸りながらも、何となくソワソワと落ち着かないこの頃です。
 皆さまには、今年もお世話になりました。この場を借りてお礼を申しあげます。来る年もご健勝であらせられますよう、お祈り申しあげます。


   2002年 師走                悲しみを隠して

 ジリジリと照りつける真夏日が、2ヶ月余の永きに亘りました。この国が熱帯地域に属したことを、今年ほど痛感したことはありません。そして秋を通り越して、辺りは一挙に冬将軍に占拠されてしまいました。
 こうしたなか、本来ならば、少しくらい体調を落とす方が普通なのに、飽くことを知らない我が胃袋は、皮下脂肪という釣り銭を律儀にも置いていってくれます。今年もいろんなことがありました。サッカーのワールドカップが開かれ、にわかサッカーファンを体験しました。
 北朝鮮による拉致事件という悲劇は、人の命の尊さと、家族の強いきずなを改めて教えてくれました。そして年の瀬というのに、アメリカとイラクの間には、きな臭い緊張感が漂っています。
 今年、家族の話題では、最大のニュースがあります。ひとり息子の孝一郎が、この春妻帯しました。相手は、まったくの偶然なのですが、私の故郷の高校の後輩です。この不思議な縁には、ほんとうに驚かされました。
 個人的出来事のトップは、会社の永年勤続賞で行ったイタリア旅行でしょう。古代ローマ帝国とルネッサンス。中学生のころからの憧れの地を踏んで、感激の連続でした。本場のピザの味は、思い出すたび、なお唾液の噴出を誘います。
 今年もたくさんの方に助けていただきました。来る年のご多幸と、皆さまがたのご健勝をお祈りして、感謝の言葉に代えさせていただきます。


  2001年 師走                悲しみを隠して

 いよいよ21世紀になりました。20世紀は『戦争の世紀』と言われていましたので、少しは穏やかな時代をと密かに願ったものです。
 しかしニューヨークの超高層ビルに突入する飛行機は、こんな夢をみじんにうち砕いてしまいました。それに続くアフガニスタンでの戦争は、一応短期に終息させることが出来たようですが、中東へ飛び火するなど、平和への道のりは、なお遠きにあることを思い知らされました。
 我が国にあっては、小泉首相の構造改革のかけ声に大きな期待をかけましたが、年の瀬に来て中堅ゼネコンの倒産など、建設業界に身を置く者として、その痛みとやらがヒタヒタと足下を濡らし始めています。経済は、未だ目に見える形で改善されそうにありません。
 今夏年は、延々と果てることない暑さに泣かされました。しかし風邪などで寝込むこともなく、無事一年を乗り越えることが出来ました。
 決して楽をしてつもりはないのですが、このところ、会う人ごとに肥満を指摘されます。やはりB級胃袋産業の値下がりに便乗して、食い意地が活発化しているとしか考えようもありません。
 我が家にあっては、子供の成長に伴い、夫婦だけのささやかな生活が比重を増しつつあります。 
 本年もいろいろとお世話をおかけしました。来る年も、本年同様のお引き回しをお願い申し上げます。


   2000年 師走                悲しみを隠して

 思い返すと、昨年の挨拶状でも猛暑のことを書いたような気がします。しかし今年の猛暑は本物でした。今年はなんと夏日が120日を越えたそうです。すなわち一年の3分の1が真夏という訳ですから、日本はほぼ熱帯地方になったことになります。この暖冬もその所為でしょうか。
 そんな中、勾配屋根材の市場開拓という新業務で、外を歩く機会が増えたこともあるでしょうが、この年末にあっても日焼けの跡がかすかに残っています。ともかく体調をくずすこともなく、一年を乗り切ることができました。
 今年も長く職を共にした先輩が、多数リタイヤして行きました。我が身も遠からず、その後を追うことになるとは思いながらも、人生の仕上げ工程に入れない自分が、ほとほと情けなくなるこの頃です。
 ミレニアムと称した世紀末の空騒ぎ。世を賑わせた少年犯罪の数々。対する警察官不祥事の大量生産。相も変わらぬ政治の世界の茶番劇。血を沸かしてくれたシドニーオリンピック。不況脱出宣言と二千円札の不思議な相関、等々。そしてあと数日を待てば、間違いなく21世紀が訪れます。その記念すべき年が、充実したものであることを念じざるを得ません。
 今年も変わらぬご厚情をいただきました。賀状に代えて、来る年も相変わらずにと、伏してお願い申しあげます。


   1999年 師走                悲しみを隠して

 この一年、様々なことがありました。経済面では言うまでもなく、何時果てるやも知れぬ「不況」という深刻な問題です。建設業界は市場縮小と、行き着くところまでいった価格競争のため、ただただ流されまいと櫨をこぎ続けるだけの状況でした。そんな中にあっても我が社は新たな事業に果敢に取り組むなど、希望を抱かせてくれています。
 一方社会面での注目は、なんと言っても「和歌山、砒素入りカレー」が際だっています。この事件はつくづく金の魔力と、女の怖さ(むろん特例だとは思いますが)を我々に見せつけてくれました。
 ところで私事においては、相も変わらず無趣味とうそぶきながら、ひたすら惰眠と飽食を極めつつあります。ただ「脳死における臓器移植」問題については、どうしても納得がいかず、人権監視委員会というボランティア団体に属して、心ある人たちと反対運動を展開してきました。世の潮流は医療の暴走を認めつつありますが、自分の信念に最後まで従っていく決意を再確認しております。
 気象の不安定に泣かされた一年でしたが、冬を迎えてまた一段と寒がりになったような気がします。私のアンダーシャツを着ない習慣は、いつまで維持できるでしょうか。寒さのピークはこれからです。くれぐれもお風邪など召さないようお気をつけください。末筆ながら、本年一年間のご厚情を感謝いたします。また来年も変わらずお引き立てのほどを、よろしくお願いいたします。 


      


森に帰ったしな乃